2006/03/03

《○ 1.準備》人のパターン文庫

世の中にはいろんな人がいる。


人それぞれ自分が一番だと、自分だけがそれに気付いていると思って生きている。奇をてらうのが良いと思う人、自分の論理が最良だと思う人、勇敢に戦い勝ち抜ける人生だと信じて疑わない人…さまざまだ。そして、これらはその人達のアイデンティティだから生まれ持った財産だと言う事だ。

しかしこのなかで特に最近僕が興味を持っている事がある。「人のパターン」だ。分かりやすく言い換えれば「この手の人は、こういう系の分野の人によくいる」といったものだ。

例えば、



「相手の理解よりも、

    論理的な話し方でまとめる事に心酔するグローバルな営業マン」

「ひとがよく分からない難解な事をあえて好んで
    不器用に知性を主張する芸術家」

「あなたの言う事は分かるといいながら、
    Uターン禁止の上書き会話をする政治家」


などだ。

こういった傾向は人ゆえに生まれる姿、そして論理の極み、また限界だと思う。


僕は今まで社会への協調を探りながら営業活動をこなし、
創造と呼ばれるモノづくりに励みながら芸術の深さや感じる事を教えられ、
自身の主張に義務を感じて、翻意なく主張してきた。


しかし少なくともこれらに当てはまる事によって自分自身の可能性を低下させているのは確かかと思えてならない。なぜなら、
相手の理解において論理は公平な言語を超えて時にブラフになってしまうし、知性の主張はその人の人間性の表裏に現れ、未熟な自己主張は、すればするほど周りが見えなくなるからだ。


人を観察すると様々なことが見える。

ましてや自分を観察すると嫌な事まで見えてしまう。
輪をかけて客観的な自分がそこにあるとき、全てが極めて冷めて見える。


でも人は面白い、そして同じだ。

あらゆる人が自分の意味を探って生きている。
僕は上記してきた人の傾向を「人のパターン文庫」と呼ぼうと思う。
そして世界中の「人のパターン文庫」を明日の糧にしよう。


さてと、明日はもう一度六法を読む。